社会人の自覚

 俺は友達かなり少なめでんで、それはどうでもよくて、社会人の自覚とか言ってる奴と久しぶりに話したけれど別に良い奴だったし面白かったんでいいんだけれど、なんつかそういう発想が出るっての、多と迎合する喜び歓喜嗚咽みたいなさ、あるじゃん凡愚どもにはさ。俺は覇王だから良く解らないけれどさ。こう三つに分かれると思うんだよね。他人からの評価と自分の評価が一致しない場合に選べるのは、他人の評価にあわせるってのが普通かな、社会が望む形に自分を整形していくってのが社会人の自覚ってやつで、あ、やべいきなり落ちいっちゃったけど。あと、あれじゃん他人の評価を自分の評価まで引き上げようとする奴、これ頑張りやさんてか俺の周りにはいないから良く解らないなぁ。んで三つ目がもう他人の評価どうでもいくね?って。これが俺の理想なんだけど。それが自由でいいって思うんだけども、それでも他人評価って気になるし、肯定されれば嬉しいってのが人情って門だろ、そこらは本能的にあるんじゃないかな。マウンティングとかさあれは俺はお前より上だって、っていう評価を群れに知らしめるつかそういうことっしょ。他があって、そこに評価される俺がいて俺がいることを確立するみたいな。まぁいいや
 でまぁ、仕事もせずにあれをあのなんかサーファーだからネットサーファーしてたんだけど、カミュのシューシフォスの神話で、人は無意識として生を望んでいるって、例えば自殺するには理由が必要だけれど、生きることに理由なんていらないよねってそういうことだなってことなのかな。だって腹が減るって意味なんてないじゃん。そういうものなんだよ。何で眠いかってそういうものなんだよってそういうことじゃん。いきたいってこともそういうレベルなんだなって、大袈裟に生きる意味ってなんだーい♪みたいな発想が愚かしくて、生きているから生きるんだって、別に格好良いとか格好悪とかそういうレベルでもなくてもっと下の欲求で、腹が減ったと同じレベルで生きたいって願うことは普通であたりまえなんだって、そらまぁそうだろ生き物みんなそうじゃんって、そうなんだけれど、生きるってことは他の犠牲の上になりたつってことだから、それを承認する。俺が他の生き物を犠牲にすることを無意識に承認しているってのは結構革命的で良い言葉だったので。さて死ぬか