慈悲殺
- 作者: ギッタ・セレニー,小俣和一郎
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2005/12/06
- メディア: 単行本
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話しはナチの絶滅収容所の所長シュタングルのインタビュー形式と、その話の裏づけインタビューあんどなんか
流れとしては慈悲殺→ホロコースト。ホロコーストの前にナチは慈悲殺っつってドイツ人の精神障害者(治る見込みのない)を殺し始めるんだけれども、そんときヨーロッパではキリスト教は深く根付いている。で、ナチは教会の動向を探る。ただキリスト教として精神障害者を悪霊に取り付かれているという見解も結構あって、最終的には黙殺している形になっているみたいな話から始まる。
精神障害者、池沼だな池沼をさ、殺せって話しは珍しいものじゃなくて、結構ある話しだけれども、その源泉は池沼は社会のやくにたたないから殺せっつーのが理由だと思う。その前に池沼は理解が出来ない行動をとるから恐ろしいってのがあるのかな。その理由づけとして社会の役に立たないってのがあるのか。まぁそんな感じで池沼は怖い→池沼は社会の役に立たない→いらない、殺せってなる
>親鸞聖人は、『歎異抄』で「善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり」とおっしゃられ、重ねて「火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」(853頁)とおっ
これ引用。これが言ってるのは人間どもが善悪を定義するなど笑止千万ってことで、社会が必ず正義であるってことは無いから、これはまぁそうだと思う。
仏教はこういうところが面白い。善悪はふたつとなったら、経典も必ず信じるものじゃないじゃんって思っちゃう。というかこういう善悪をあわせてもつ、または善悪を持たない奴ってのは、キリスト教だと、スタヴローギンとかピョートルとかイワンになるんじゃないかな。ああ、これは無神論か、でも善悪の定義はどこかにあるとしたら神ってものじゃないと無理だとしたら、無心論者になるか、神の経典を信仰するかどっちかの気がするな。善悪の彼岸がどこかにあるけれど、神は信じないってのは成り立つんだろうか。
話は全然かわったけれどまぁいい感想としてはこの本はひたすらに暗かったし、まだ途中などまたレビューやろう